2016年が始まりました。 ―今年をどんな年にしようか、考えてみた。

こんばんは。
そして、あけましておめでとうございます。
北村ななみです。

あっという間に2016年が、5日も過ぎていました。
2015年もあっという間だったのですが、本当に月日が経つのは早いです。
年末は、12月28日に消防団として「年末警戒」に初めて参加し、地域の方と年末いろいろお話しできたことが印象に残っています。

今年は、3日間だけ実家に帰りました。
その際、高校卒業までお茶を習っていた先生に5年ぶりくらいに挨拶に行けたこと、中学からの同級生に会えたこと、そして、もうだいぶ高齢の祖母たちに会えたことがやはり、実家に帰ってよかったと感じたことです。
父方、母方の祖母たちは、2人とも元気で暮らしていますが、80代を迎えて長く、父方の祖母はもうすぐ米寿です。

18歳で長野を離れてもう10年。
お茶の先生も、友人も、祖母たちも、18歳の頃から、当たり前ですが歳を重ねています。
今まで、当然だと思っていたことも、振り返ったら全く当然などというものではなく、色んな方に、様々な形でお世話になったり、迷惑をかけたり、応援してもらったりしてきたわけで、私は迷惑を振りまきながら過ごしてきたんだなと痛感しました。

今年は、もう少しましな人間になりたいものです。

***
さて、改めて考えますと、2016年4月で、ここ、新宮に来て丸2年を迎えます。
そして、今年は新宮で暮らして3年目に入る年です。

「地域活性化」がしたいと考え始めたのが高校生の頃だったので、そこから数えてそれも10年。
いい加減、どんな「地域活性化」が自分の考えるものなのかを具体的に作っていく時期です。

そう思いながら、過去の日記を読み返していたら(私は日記をつけているんです…。)、

私は文化的な「都市」を「地方」に作りたい。
それは「地方の東京化」ではない。
その土地の文脈や歴史や風土を大切にしながら、都市のような人やモノの新陳代謝を活発に行える場所。

普通の人が、普通に暮らせる社会を作りたい。

と書いてあるのを見つけ、考えていることって、あまり変わらないんだな、と思いました。

新宮という場所は、文脈、歴史、風土、どれをとっても他の地域に引けを取りません。
こういう場所で、自分の考えていた「都市」を目指していけたら、それ以上に喜ばしいことはないです。

とは言え、ここに書いてあるのはかなり観念的なことでしかないので、もっと具体的に「文化的な都市」って何なのよ?何をどうしたら実現できるのよ?ということを考えていく年にしたいと思います。

そして、同時に、女性の働き方、子どもを取り巻く環境、障がい児・障がい者の方を取り巻く環境、マイノリティを取り巻く環境、といった、自分の関心がある分野をもっと勉強し、新宮市の実情を調べて、見ていきたいと思います。

***
そして考える、と言えば、目から鱗だったエントリを紹介して、今日は終わりにしたいと思います。
皆さんは、「考える」ときに、どうやってものを考えますか?

は?そんなの簡単やん、と思われるかもしれないですが、ものを考えるときって、自分に問いかけますよね。
「どうやるのか」、「何をするのか」、「なぜやるのか」、といったように。

この時に、自分の思考の癖みたいなものがあるんだそうです。
それがこのエントリ。

自分への問いかけ方で、無意識のうちに思考は固定化されている — The First Penguin — Medium

これを読んで、目から鱗が落ちました。
例えば、私は基本的に、「なぜ」で物を考える癖があり、だから観念的な物言いになったり、自分の考えを深化させたつもりでも具体性がないって突っ込まれたり…するんだな!と、反省できました。

というわけで、今年の小さな目標として、「なぜ」以外に、「どうやって」という問いかけを意識的にしてみる、というものも付け加えたいと思います。
このエントリを書いたけんすうさんご自身は、「どうやって(HOW?)」を考えがち、と書いておられます。
しかし、私は無意識に「どうやって」を考えたことがほとんどなかったのです。

それだと、嗜好の幅も広がらないな、ということに新年早々気付けて良かったです。

今年は、ちょっとずつ、自分の思考の癖や行動の癖に意識を向けて、徐々に変化させていく所存です。
それと並行しながら、上記でも書いたように、文化的な都市づくりを目指して、自分の関心のある分野に飛び込んでいってみますね。

それでは、今年もよろしくお願いいたします。

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【メモ】自分が言及したイベントに実際に行ってみた。 ―イベントの意義とどこに価値を置くかということについて

こんばんは。
北村ななみです。

ここ数日間の間にあった、いくつかのイベントにも顔を出しました。
筆供養、忠度まつり、天空ハーフマラソン。

中でも、忠度まつりと天空ハーフマラソンは、先日決算委員会でも言及したように、いわゆる借金、「過疎債」を充てて開催しているイベント。
でも、実際に、そこでどんなことが行われているのかとか、どういう人たちが主催して、どんな人たちが参加しているのかを見ないまま「借金だから無駄」で片づけるのは、あまりにも暴論ではないか…?
今まで自分たちが、意義も感じてて、楽しんでいたものを、突然来た人間が、「お金がもったいない」とか、「意義が見いだせない」とか言って、無にしてしまったら、そこには断絶が生まれるばかりなのでは…?と思います。

…しかし、それも考えつつ、じゃあ財政は大丈夫なのか!?という声ももちろんあるわけです。
だからまあ、そういうことをあれこれと考えてみるのは頭の中だけにして、ちゃんと実際の場も見て来よう、と思ったから「行ってきた」、というのが本日の主題。

私は、イベントが”無駄”とまでは思ってなかったですが、”どういう必要性があるのかな~”とは思ってました。
で、結局、イベントに行ってみて思うのは、無駄だと判断するにも、数字だけではわからない部分があるから現場も見に行った方が絶対にいい、ということです。

忠度まつりの人出、すごく多かったように思います。
忠度まつりは、旧熊野川町時代から続けられているものでもあるらしく、地域の”賑わい”には確かに一役買っているんだなあ、と思いましたし、この賑わいを維持すべく、尽力されている方々もいる。

ハーフマラソンで思ったのは、過疎債で財政負担を減らしたうえで、さらにスタッフもみんなボランティアで、お休みの日だけど行政の方とか地元で働いている方とか、そういう方がみんなでスタッフを務めてるんだなあ、ということです。
いや、マラソン大会の主体が市だから、そりゃスタッフも当然そうなるでしょ、と思われるかもしれないですけど、みなさん、週5働いてて、貴重なお休みの2日間の1日がまあつぶれるわけですよね。

そもそもイベントやらなければいいのでは、って考え方はもちろんアリですけど、じゃあ今回の賑わいの分のいくらかの効果って、他でどんな風に出したらいいですかね…?
そこをしっかり考えて提案できなかったら、やっぱり机上の議論で終わってしまいます。

ただ、こうやってイベントに参加してみて、じゃあ「イベントって絶対必要!」ってなったかっていうとそうでもなくて、他に削れるところってどこかないのかな、という印象です。
何らかのイベントを残したいんだったら、どこか別のところで削れるところを見つけた方がいいんじゃないでしょうか。
そうしないと、財政負担は膨らむばかり、という待ったなしの状態であることは事実です。

***

議員になって半年が経ちましたが、いままで見てきた中で、私は今、行政と市民の方、議員と市民の方、行政と議員(もしくは議会)、それぞれがお互いに対する誤解とか思い込み、期待のズレとかがあって、理想とする意思の疎通のプロセスとか、議論の仕方とか土壌とか、そういうものがうまく回ってないと感じています。

議員の仕事って、行政を監視したり質したりするだけじゃなくて、市民の方と行政との橋渡し役でもあるはずなんですよね。

そういう、本来の機能を、もっと充実させていきたい、と強く思います。

遠回りに見えますが、そのズレを解消しないと、何かを止めるにしても、減らすにしても、気持ちの共有ができないために、ことが進まなくなってしまうことを危惧しています。
その意味で、イベントに行ったことはよかったと思います。

自分の主張を声高に言うことは大事です。
でも、その主張をまとめにかからないと、何も進まないんですよね。

うまくまとめていける人になりたいと思います。
…道は遠そう。

本日はこの辺で。

地方に住むことの、「幸福とは何か」を考える時期に来ているのではないか、という話。

こんばんは。
北村ななみです。

昨日、今日と、市内の各地区の盆踊りに参加しました。
盆踊りに行く前は、いまさらながらリーフレットをポスティングしていて、今日は篠尾(ささび)と敷屋(しきや)を回っていました。

さて、篠尾という地区に行く道すがら、ふと考えたことを今日は書いてみたいと思います。

***

篠尾という地区、新宮市にあっては市内から最も遠い地区ではないかと思います。
私が住んでいる日足からでも、篠尾に行くには少なくとも50分はかかります。
市内から日足までおよそ30分はかかるので、篠尾という地区は「新宮市内」といえども市街地から1時間半はかかる場所にあるのです。

どんどんと山奥に向かっていく道路の上で、車を走らせながら、「どこに住むことが幸せなのか」、「何をしあわせと定義するのか」についてずっと考えていました。

人口減少が叫ばれて久しい昨今、今住んでいる地域をどのように存続させていくのか、というテーマについて考えていかなければいけない局面を迎えていると思います。
それは、「人口を増やせばよい」、「産業を興せばよい」という実利的な部分だけではなく、その地域に住むことのより根本的な意味をシビアに考えなければいけないということなのかな、と思います。

篠尾では、お盆だからか、帰省客の方々と地元の家族とが川で楽しそうに遊んでいました。
集落を回ると言っても、車を止めて、自分の足でも何とか回りきれる規模の集落です。
静かだし、景観はきれいだし、素敵な場所だなあ、と思います。
市内からの距離の遠さが、この静けさや景観を保持していることにつながっている部分はあるのではないでしょうか。

しかし、この「距離」がネックにもなりえます。
今、新宮市では「地域包括ケアシステム」という、”重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される(厚労省サイトより)”しくみを作ろうとしています。
そのしくみの中では、こういったサービスはおおむね30分以内に提供できることが望ましいとされています。
しかし、そのサービスを提供するためには、この交通事情は考慮すべき事柄の一つだと思います。

24時間の医療・介護サービスなどは、どうやったら提供できるようになるのか。
そもそも、そのサービス提供をだれが担うのか。

”住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう”とありますが、地域で暮らしていくことの幸せとは何かを、今一度考えて自分なりに定義していかないといけないのかもしれません。

それは、厳しい話になりますが、集落を維持したり、道路を補修したり、人命を守り、医療・介護サービスをまんべんなく届けるためには、その分のコストがかかる、という事情があるからです。
そのコストを誰がどのように負担し、どのようなサービスを提供していくことが今後の自治体運営には望ましいのか、それを個々人の「幸福」を実現することと合わせて考えながら、政策を打っていくことが必要ではないかと思います。

盆踊りに参加した時も同様のことを感じました。
大人になってみる盆踊りは感動的です。
集落の大人が(ときには子どもも参加して)、盆踊りという一つの行事を執り行うために協力し合い、夜の数時間のために力を合わせる。
子どもの時には全然わからなかった地域の力が、そこにはあるんだなあと思いました。

こういった行事を維持していくことも、まずは「人」がいて、そしてそこに「住む」ということが必要です。

地域に人が住んで、集落を維持していくということと、そこに住む人たちが考える「幸福」とは何か。
それを最大限に支える「公共」であるべきだと思いますが、自治体の財政が厳しい今、どのようにそこに住む人たちのくらしを支え、幸福を追求することを応援し、集落を維持していける「公共」を作っていくのか。

それが、これから先の社会を作っていく上ではとても重要なことになるのではないかと思いました。

右肩上がりの経済成長がストップしてしまって久しい昨今、次の一手をいかに打ち続け、どのようなまちにするのが望ましいのか、モデルがない中を手探りで進んでいく、そういう厳しい時代に突入していることを今一度感じさせられました。

***

私の観念的な文章になってしまいましたが、たまには、自分の考えていることをそのまま書いてみました。
実利的な部分だけではなく、地域に住む人の「思い」にまで、考えを馳せられる政策づくり、まちづくりがしていきたいです。

それでは、本日はこの辺で。